武道に禁じ手無し

白鵬関の進化を見たい

私は、圧倒的なパワーを誇る大関小錦関、その突き押しの前に敢然と立ちはだかる、小兵横綱千代の富士関の雄姿。相撲の神髄を見た感動に震えたことを思い出します。

ところで、白鵬関は、猫だまし、張り手、肘打ちなどに文句をつけられています。ファンあっての「大相撲」ですから仕方ないのですかね。しかし、これが「相撲」となれば、武道ですから話は違います。武道に禁じ手はないからです。

相手がどんな手を使っても、それに対処するのが武道です。武道は、人生は予測できないものでであり、その危機を乗り越えるために、心と力を養うという目的で存在しています。相手が、卑怯で強いほど、武道では勉強になる訳で、どのような事でも受け入れて、それの対応を工夫していくのが、武道の稽古です。ですから、技を禁じることは、スポーツにあっても武道にあってはいけません。

そればかりでなく、武道では、わざと過酷な状況を作って稽古をします。たとえば、寒い時にする寒稽古や暑いときの土用稽古、闇稽古、立ち切り稽古、掛かり稽古などがあるわけです。

さらに、【封じ手】というものがあります。自分を不利にする目的で、この手は使わないと、決めて稽古します。「窮鼠猫をかむ」「火事場の馬鹿力」と言うように、追い込まれて発揮する、底知れない力を掴みたいからです。

その他に【止め技】ということがあります。これは、上達のために、ある段階では悪い癖がつく技を使わないように、師匠命令で制限する技です。しかし、そんな時でも、稽古と試合は別物です。試合は何をしてもいい、足に噛り付いても勝てとの教えがあります。

白鵬関は試合人として生かされてますから、素人が【禁じ手・止め技】を課すのは残酷でそす。百獣の王ライオンは、ウサギを獲るときも全力で戦うのです。それが自然の摂理です。白鵬関という王者の牙を抜く大相撲界に、私は、強靭さゆえに受け入れてもらえなかったキングコングような、深い哀れさ、悲しさを感じます。

古武士 平山行蔵先生は、他流試合の来る人は、どんな武器を使ってもいいという看板を懸けていました。刀対鉄砲でも、卑怯とは言わないのです。武道とはそのようなものです。私は、恩師から、このような話を聞かされながら修行して来ました。

白鵬関の張り手やひじ打ちを、見苦しいとかいう人がいますが、これは武道からみれば、やられる方が弱いのであって、特に猫だましに掛かるなどは、もの笑いでしかありません。その他の技でも、対処方法はいくらでもあり、鍛えれば誰でも凌げるのです。弱者を叱咤せず、白鵬関を攻撃するのは、武道本家の日本人として、情けない話です。

また、横綱らしくないという意見もありますが、横綱というものは勝率で決まるという、強さでなったものです。人格で得るものではありません。横綱の看板を掛けさせて、勝つことを背負わせ、あげく技を禁じては、勝てる勝負も勝てません。相撲協会は、武道の団体ではないですね。


古人は「40,50は鼻たれ小僧」と言ってまして、抜群の強さとはいえ、白鵬関はまだ30過ぎの青二才ですから、理想の風格を持たせようとするのが、人間としては無理注文なのです。

すべては、必死勝負の醍醐味に、無責任な岡目8目で、傍からあれこれ言う者が水を差しているところです。とはいうものの、その心は、真剣な武道の稽古を経験した者しか学べないところかも知れません。それで、武道家の誰かが、言わねばならない話と思いました。

勝負の醍醐味、万全の白鵬を倒す力士が現れることを楽しみにしています。



北辰一刀流 (第七代宗家 椎名市衛成胤)

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