千葉周作成政
北辰一刀流開祖、千葉周作先生は、気仙沼に生まれ、故あって少年時は父と故郷を逃れ、荒谷村斗瑩に住みました。
ここで、北辰夢想流の千葉吉之丞先生から剣術を習いました。
16歳のとき、吉之丞先生の息子周作の名前を借りて江戸へ出て、以後千葉周作と名乗り、浅利又七郎先生の道場で稽古します。
浅利又七郎義信
浅利家は中西道場の別格家といって、一刀流の後見人でありました。
別格家とは、本家に跡継ぎが無くなった場合、その流派を継ぐ家のことです。
つまり、流派の影の本流的存在で、浅利先生は、江戸随一の実力者といわれていました。
浅利先生は、まず自分の道場で周作先生を鍛え、そして中西道場へ送りました。
当時の中西道場は、寺田五郎衛門、白井亨、高柳又四郎の三名人や、山岡鉄舟を悟りに導いた後の浅利又七郎義明などの、素質ある剣士が、ずらりと居並ぶ、日本一の道場でありました。
浅利先生は、周作先生を養子にし、浅利又一良という名前を与えて、思う存分に剣を磨かせましたが、周作先生の天才では、日本一の道場でも、物足らなくなりました。
北辰一刀流の誕生
天才であった周作先生は、一刀流を改良し始めました。周作先生の才能を生かさせたい浅利先生でありましたが、別格家という立場上、流派を守らなければなりません。
そこで、波風が立たないよう離縁という形を取り、穏便に周作先生の前途を開いたのです。そのことは、周作先生が、後々まで、浅利又一良の名を捨てなかったことから分かっています。
そんな理由で、周作先生は、妻を連れて独立し、新たに北辰一刀流を創始したのです。幕末の北辰一刀流の隆盛については、別にお話します。
北辰一刀流の断絶
さて、維新があって、廃刀令があり、また千葉家に於いては、周作先生の子供たちが夭折するという非運があり、宗家は周作‐栄次郎‐道三郎の3代で断絶しました。
あとには、いくつかの師範家=免許を得て北辰一刀流を指導する道場が残りましたが、型稽古を伝えたのは水戸東武館だけでした。
千葉定吉の道場があったようですが、定吉没後は閉鎖されています。
また、斗瑩時代の経緯を神社隣の円明寺の過去帳から調査すると、定吉は実弟ではなく、北辰夢想流・千葉吉ノ丞の孫と推察できます。
水戸東武館ですが、第3代館長であった小澤豊吉先生が、跡継ぎ問題で第4代に追い出されたので、正当な北辰一刀流は、東京の皇道義会・東京東武館に移されました。
こうして、北辰一刀流は、宗家が断絶、師範家はたった一つ残っただけのなったのです。
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