剣術の極意「切落とし」
全ての剣術の極意はは同じです。極意というと、神秘的で、技術的にも難しいように思われがちですが、刀と刀の交差するときの現象なので、簡単な物理で説くことの出来るものです。極意は、気とか筋力に関係ありませんから、やろうとすれば、誰にでも、今すぐにでもできます。北辰一刀流では極意を「切落とし」といいます。
さて、剣と剣が交差するときのことですから、一瞬にして勝敗が決まりますので、心に何かあると、どうしても体がうまく動きません。そこで稽古が必要になります。
コロコロ変わる。コロコロだから心といいます。誰でも、一瞬は無心になれても、心を安定させることは、すごく難しいのです。その安定させた心がないと、切り落としはできません。コロコロを、コロコロさせないことは、大変に苦労することで、極意といわる訳はそこにあります。
さて、切り落としは、心の問題ということになるので、人格が関係します。稽古では、腹の底まで曝け出してしまうので、見栄っ張りには、大変なことですが、素直な人には、そのまま稽古すればいいことですから簡単です。コツは、宗家を信じ、言われるがまま、自分の知恵やトレーニングに頼らないことが大事です。不安や執着心を、すべて切り落として、素直な自分に成り切り、あとは神に任せるのです。
私は、全てを教えることはできますが、一つも身につけさせることはできません。身につけるのは、個々の仕事です。切り落としは、各人が、苦労して発見するしかないのです。切り落しが発見できれば、昨日入門した者でも、ただちに免許皆伝となります。
千葉周作の新事実
千葉周作は偽名だった?
宮城県大崎市に斗瑩稲荷神社がある。千葉周作生い立ちの地という看板が立っている。
この隣に光明寺がある。住職の伊藤さんが驚く話をしてくれた。「昔は神仏習合で神社まで住職が管理していた。数代前の住職は気仙沼から来た。それを頼って周作先生親子が気仙沼から逃れてきた」のだそうだ。公にできない事実があったのだという。それで神社の境内に住まわせた。
周作先生がこの神社の境内で6歳から16歳頃まで暮らしていたという。ここから江戸へ出たのである。周作先生は、この斗瑩の地で北辰夢想流を学んだのである。
その師匠、北辰夢想流千葉吉之丞先生の墓が光明寺にある。
周作先生は於兎松という名だった。江戸へ出るには手形がいる。しかし、身に覚えのあり本名が使えない。そこで、周作の父は、師匠吉之丞の子の幸右衛門の名を借り、於兎松は孫周作の名を借りて江戸へ出た。
光明寺には、幸右衛門、周作の墓も並んでいる。
周作の弟、定吉について
千葉定吉は周作先生の4歳違いの弟とされているが、瑩稲では暮らしていない。お玉が池に玄武館を構えたときに、突如現れ剣を使う。その時の定吉の年齢は28歳位。いったいどこで暮らし、いつ剣を学んだのか。
思うに定吉は、斗瑩の本物の周作の弟定作であろう。周作先生の盛名を頼って江戸に来た。周作先生は、それを実の弟にして面倒を見たのだろう。北斗の人を書いた司馬遼太郎の調査は、いい加減だ。私はあの本が嫌いだ。
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