お友達の和空さんが言いました。
『女性が、女性のままで努力したとき、それを「精進」といい、その人に自信をもたらしてくれます。しかし、女性が女性であることを否定して、男性に負けまいと努力したとき、それを「我張(がんばる=我欲を張る)」といいます。自分の生まれを否定することですから、その人は劣等感にさいなまれることになります。』負けまいとして起こる、いろいろな社会的地位を求める声などは、劣等感から来るものです。
さて、「精進」すると、なぜ自分に自信が出来るかというと、自分のありのままの姿が見えて、自分の生の意味、なぜ生きているのか、何のために生きているのか、どう生きていけばいいのかが、はっきりと分かるからです。「私は、これだから生きているのだ」との、確信を得ることになるのです。それを「悟り」と言い、「天命を知る」と言います。
スポーツや武道では、人に勝とうとしてトレーニングや練習をしていますが、これは、自分の弱さを否定することですから「我張」になり、いくら強くなっても、もっと強いものに対する不安や劣等感が残ります。根本的に、強化トレーニングに期待しているわけですから、弱くなる恐怖が日ごとに強くなり、不安から解放されされることはないのです。そして、年齢に限界を教えられて、人は引退するのです。
貧乏を否定する人は、もっと金がなければ不安だと感じてるから、金儲けを「我張」ります。私たち貧乏人から見れば、十分すぎる資産があるのに、まだ不安で、もっと儲けようとしています。今のままで、なぜ安心できないのだろうかと、滑稽に見えます。江戸時代の人は、宵越しの銭がないほど貧乏でしたが、私たちよりも、ずっと幸福感のある生活だったことが知られています。
ウォーキングなども、健康への不安や劣等感から行われるトレーニングではないでしょうか。動物は、トレーニングしません。不安や劣等感を持たないからです。弱い人は、弱いままでいいのです。そのままで努力すること、「精進」こそが安心=幸福への切符です。
つづく
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